日本の土地制度を考える時に、土地の権利はどう変わっていったかというような疑問が、ふと頭をよぎることもあるのではないでしょうか。
ここでは、日本の土地制度を近世から江戸、明治以降から敗戦まで、戦後から令和までに分けてご紹介します。
江戸時代は、幕府の検地によって、農地についての所有者・石高・面積を一覧でまとめて管理するようになりました。
一方、所有権が農地以外の武家地、町人地、寺社地にも認められており、町人地は土地所有者に権利証である「沽券」が交付されました。
「沽券にかかわる」という言葉が、慣用句にあります。
この言葉の意味はプライドが傷つくというようなものですが、語源は土地所有権を意味する「沽券」のようです。
農地は取引が「田畑永代売買禁止令」によって禁じられていましたが、町人地では活発に取引されていたようです。
土地の取引は所有権の移転になるため、売主と名主や五人組が署名して捺印した「沽券」を、買主に代金と引き換えに交付し、消印を売主の「沽券」にして無効にしました。
一般的に、名主の家で土地の取引は行ったようで、取引台帳を名主は保管して取引の内容を残していました。
そのため、名主は不動産仲介業を兼務していたようです。
金融担保としても土地は利用されていました。
質に沽券を入れてお金を借りますが、返済が期限までにできない時は質流れになって土地の所有権が移ることもあったようです。
質に入れるのは、都市部の土地以外に農地もあったようです。
〈口入業者〉
土地や町家は活発に取引されており、口入業者という物件仲介業者がいました。
口入業者は、仲間間のネットワークによって、物件の形状や価格、収益などの情報を共有する書類を持っていました。
おそらく、今の「マイソク」のようなものであったと考えられます。
取引が成り立つと、仲介手数料が口入業者に払われましたが、どの程度の料率にするか、払うのは売主か買主かについてのはっきりした決まりはなかったようです。
地代も調査されており、角地は高かったようです。
木造家屋は燃えやすいため、類焼になる可能性が角地の方が低かったためということですが、もっともな話です。
一方、投資対象にも土地はなっており、髪結株や湯屋株などの営業権の取引との関係が強く、口入業者は土地の仲介を株の仲介とともに行なっていたこともわかっています。
ここでは、明治以降から敗戦までにいたる日本の土地制度についてご紹介します。
〈近代的な土地所有制度〉
明治4年に出された「田畑勝手作りを許可」は、おそらく明治政府の「御一新」を強調するためのものでしょう。
この法令の本当の意義は、屋敷地に田畑を転用するのも自由になっていることです。
この法令は、農政分野だけでなく、一般的な土地を自由に利用することを公認しており、地租改正によって成立する近代的な土地所有制度の前提になるものです。
この次の年から、地券が従来の年貢負担者に発行されるようになり、完全に封建的な領有権はなくなります。
しかし、江戸時代と同じように地主に対する小作料は現物納で、封建的遺制として近代的な土地所有制度の中に残ったものです。
〈寄生地主制〉
明治初年から、インフレが不換紙幣の増発で進み、実質的に定額の金納地租負担は軽くなりました。
地主などの自作農はこの恩恵を受けましたが、恩恵を現物納の小作人は受けませんでした。
明治14年の政変からのデフレ政策は、日本のこの後の経済構造を決定づけるようになりました。
収入が繭価、米価の暴落で少なくなったことによって、重く定額の地租はのしかかりました。
租税比率は、明治17年には1反あたり34%にもなっていました。
自作農の多くが没落し、大規模な土地集積が地主によって進みました。
一方、都市部をメインに資本主義が本格的に進み始め、農業は脆弱であるため衰えていきました。
地主の中からは、農業を止めて都市に移る人も現れました。
このような地主は、巨万の富を小作料で築いて、貯めた資金を産業資本に出資したり、商品相場に投機したりするなどを行うようになりました。
寄生地主は、このような地主のことをいいます。
一方、不在地主は、この中で村を離れた地主のことをいいます。
日本の初期の資本主義は、その成長の中に寄生地主制を組み込んで、封建的な小作人に対する支配を梃子にした収奪で、資本の調達ができるようになりました。
このようにして、広範に寄生地主制が成立し、貧富の違いが固定され、別の先進国に比較して国内市場が非常に狭いという日本経済の特徴が作られました。
そのため、日本の資本主義が成長するためには、資本の海外侵略を伴う輸出が必要になっていきました。
日露戦争は、世界で初めての帝国主義同士の戦争といわれています。
ここでは、戦後〜令和までの日本の土地制度についてご紹介します。
GHQの最高司令官のマッカーサーは、戦後の1946年から所有権を地主から買い上げて、安価で小作人に売り渡す農地改革を行いました。
特に、農地があるところにいない地主については、農地を全て没収しました。
地主が住んでいるところの農地についても、一定の面積以上は没収しました。
換金が10年間できない国債で土地代は払われましたが、この価値はインフレでほとんど無くなって、従来栄華を誇った多くの地主が没落しました。
そして、土地は安価で小作人に払い下げられたので、自作農が多くなり、地主制は事実上廃止になりました。
この対策は、軍部の経済的基盤の一部を力を持った地主が担っていたことが軍国化の要因の一つになっていたため、それを予防することが目的です。
また、共産主義の思想に地主制が通じるものがあったため、共産主義が拡がるのを防止することであったともいわれています。
しかし、農地を農地改革で払い下げられた一部の小作人は、所有地の農作を止めて売ったため、農地が少なくなる要因にもなっています。
富裕者は広くこの土地を買い占めて、農作以外に宅地などに使うようになりました。
さらに、地価が終戦直後からのインフレによって高くなると、土地を持っている人は金持ちであるという意識が定着します。
買う時はあまり高くなかった土地でも、開発が進むと地価がアップしたため、広い土地を持っていた人は昔の農村の地主のような富裕者になりました。
小作人と地主の関係は、地域や規模によって違っていたようです。
特に大地主は、近畿と東北で様相が少し違ったようです。
近畿の地主は、所有地が割合少なく、高い小作料になっていました。
地主に雇用された世話人が、土地を管理したり、小作料を取り立てしたり、小作人を世話したりしていました。
一方、東北の地主は、没落地主や農民に対する貸し付けによって土地を抵当にとって、所有地を広く持っていました。
小作料が納められないと「貸し付け」として、地主は強力かつ直接的に小作人を支配していました。
小作人を地主が支配していたのは、近畿も東北も同じです。
一方、生活が小作料のみでは成立しない零細地主は、農作を自らも行っており、リーダー的な役割を農村において果たしていたケースも多くあります。
一言で地主といっても、地域や時代によって様相はいろいろですが、いつの時代も大きな権力を土地が生み出すのは同じなようです。
ここでは、日本の土地制度を近世から江戸、明治以降から敗戦まで、戦後から令和までに分けてご紹介しました。